体育会系調律師のプロセス

最近 ふと、ピアノと向き合った後に 思う事が増えている事があります。 『 獣医学部へ進んでいたら どうなっていたかな!? 』と 未練とは逆に 今の仕事の世界へ 飛び込んだ時の事を想い出します。


娘の通う学校のチャペルには  立派な ちょっと個性的な響きの  フランス製の 《 パイプオルガン 》 が、有ります。       私の 母校は とても小さいながらも 当時、行き場を失って 寄贈された アップライトピアノ が 壁に沿って ぐるりと 何台も置かれている 音楽室の隣りの 準備室の様な部屋が有りました。   レッスンを受ける事は 辞めてしまっていましたので 自宅のピアノは 殆ど 弾く事もなくなっていたのですが、 それらの 調律されていない とんでもなく狂った ピアノを 友人たちと 一斉に弾きまくっていました。   小さな カトリックの 幼稚園から高校まで有る ミッションスクールの 高等部のみ 3年間を過した 学校でしたが、 当時の 校長だった シスターは 生徒を ファーストネームで呼ぶ方で 雑多な マンモス公立校から 入学した 兎に角、歩いているだけでも 目立つ生徒だったので 何かと 沢山 名前を呼んで頂いていました。   更には 中高一貫の女子校となるので そこで 学年に数人しか居ない 体育会系の 理数系 と言うだけでも 目立ちますし ピアノまで 下手ながら そこそこは(多分)弾いていたので 可なりの変った生徒だった事と想います。   そんな生徒が、 獣医大学に願書を出してから 『 専門学校で 調律の勉強をします! 』 と 言い出せば 更に目立ってしまって 担任と共に 呼び出されて 長時間の話し合いをして下さった方です。
 

この写真の方は 戦前戦後を通して 娘の学校を支えられた カナダ人の校長先生です。      私の母校の 校長は 日本人でしたが、 幼少の頃 病弱で 殆ど通学する事が出来なかったものの ベッドの上で 大学の教授クラスの方々から 実に沢山の事を学ばれていらした方でした。   日本語よりも 英語の方が堪能だった様に 記憶しています。   修道院の 総長のシスターも ブラジルへ 度々足を運ばれていらっしゃる方でしたし 母体の教会には エミリアン・ミルサン神父がいらっしゃって 学校法人の 理事長でもある方でしたが、 日本語は 殆ど使われない方でした。

今日も ふと、目に入った 夕焼け雲を眺めながら 当時の事を想い出したのですが、 小さな頃から 近所の教会の庭で 遊ばせて貰って 日本語が出来合い アフリカ系のアメリカ人の男の子と 喧嘩をして〜 そんな事が有ったからなのか!? ちゃんと 聖書なるものも読んだ事も無く 自ら ミッションスクールで学ぶ事を選び 《 アヴェ・マリア 》の曲のチャイムを聞きながら 賛美歌を歌う事を 楽しく感じ ずっと夢見て目指してきた 獣医学部への針路を急変させて 今の ピアノ調律師の世界へと それこそまた 何も分からずに 飛び込んで 現在に至って居ますが、 ミッションスクールへ行く事が無ければ きっと 今の道は選んでいなかった事でしょう。 

進路変更を 瞬時に決めたものは 1枚の 《 写真 》 でした。   それは ピアノの 上前パネルと 下前パネルが、外された状態の アクションと 弦が、1台分 写っていたものでした。    『 綺麗だな・・・ 』 と想いつつ 眺めていると ふと、目の高さよりも高い所に並んでいる 鍵盤を 背伸びして 見ようとしている 自分を想い出しました。    『 見たいの? 』と 声を掛けてくれた瞬間に ひょい! と 片腕で抱上げて下さって 『 もうね、閉めちゃったけど 上から 見えるかな!?  ほら、動くんだよ!! 』 と 言いながら ハンマーの動きを 見せて下さった 髭を生やした 調律師の姿を フラッシュバックの様に 想い出しました。   後々 兄に いつ頃の事かを尋ねると 弟が生まれる前の筈だとの事で 本当に ヨチヨチ歩きだった頃の事のようです。   確かに 姉に抱かれて 母の大きなお腹を見ていた記憶もあります。   生まれる前から 姉が弾く ピアノの音を聴いて育ち 幼稚園児の頃には 既に クラシックのレコード鑑賞が好きでしたし その頃には メロディーだけでも 耳コピーをしていたので みんなが歌っている 歌謡曲の歌詞が 楽器と同じ音階で聞こえて仕舞って 歌詞が覚えられず ちょっと寂しい思いもしました。   更には 自営業を営む家だったので 人見知りをせずに 初対面の人とも 会話を楽しんで来れた環境は 結局 ずっと 今に至るまで 無駄になっているものは殆ど無くて…。 
実家で 眠っている 本当に壊れてしまっている 小さな アップライトピアノ の事を 想いました。