楽器の町《 浜松 》日帰り旅行Part1♪


朝焼けに浮かび上がる 富士山と 左上には 細い月が 幻想的でした。     今日は 東京都の県境まで 一旦 走ってから  この富士山の向こう側を通って 南アルプスの向こう側へと 向かいました。


昭和14年頃に製造された 【 YAMAHA No.15 】 グランドピアノの 鍵盤を 浜松の職人にお願いをして 張替えて頂く事になりました。    一般の 鍵盤に使われている 《 アクリペット 》等の 材料であれば 必要な設備が揃っていれば  修理を学んだ調律師であれば 張替える事が出来ますが、 今回は 《 象牙鍵盤 》 に 張替えて貰う為に  象牙に 鉋(かんな)掛をして 美しく仕上げて下さる職人さんに  お世話になっている 調律師の大先輩に お願いをして頂きました。
中央道・圏央道・関越道・外環道を走って 鍵盤を受取りに行きました。      グランドピアノの アクションを外して 筬(おさ)と呼ばれる 木枠ごと 車に積み込みました。

再び 外環道・関越道・圏央道・中央道を走り  富士五湖道路に入りました。  その間の 富士山の表情の変わる姿が、 とてもユニークで 素敵だったのですが、 運転中は 写メが出来ないので お届けできませんが、悪しからず、です。   御殿場から 東名に入り 最初のサービスエリア《 駒門 》まで来ると 富士山の化粧は 随分とナチュラルメイクへと変わっていました。

富士山に 段々と 背を向ける様に 走り始めたので 《 富士川サービスエリア 》から  浜松へ 『 もう直ぐ到着します。 』の 連絡を入れつつ 随分と 勇ましい姿へと変わった 富士山を1枚。
 
お忙しい貴重なお時間の間で 打合せをしつつ  大先輩である 恩師が、最近 次々と旅立たれる事が続いた事もあって  故人の想い出や 近況報告などをお話して 『 段々と この様な 古いピアノを可愛がってくれる人が、減ってきたし 日本人の昔からの傾向で 新しければ何でも一番良いと思われるのも 寂しい事ですね…。 』 そんなお話になりました。   新しいピアノには 新しいピアノ成りの 弾き手に対する 《 反応 》が ありますが、 時代の流れと共に 量産化される様になって 作り方のコンセプトが、変わって来た事による 音の響きや 表現力の能力に対して 疑問を感じないで 『 古いピアノは 反応が悪い! 次分のテクニックに着いて来ない! 』と 仰る方々も 少なく在りません。   しかしながら 弾き比べた時の 根本的な 《 音 》《 響き 》 の奥深さを 感じられない、弾き出せない… と 感じられる事が少なくないのです。
最近 経験値豊かな 様々なメーカー勤務の調律師達からも 『 何かと言えば、直ぐに 調律師の所為にされるんだよね…。 』 と言う ボヤキを聞くことが増えました。 『 そんな事は 私がずっと前から言っているじゃないですか〜!?  高地寒冷地に有る ピアノ達を 弾きながらコントロール出来ない人ほど ピアノに興味を持たないし 調律師の所為にして 日頃の管理者達も 弾き込み作業もせず 楽器保管庫で眠らせているだけで 管理している!と言うでしょう!? 』 この様な会話を聞いた一般の方々や 演奏者は 大きく二分された 感想を持たれます。 良し悪しの問題ではなくて 好みの問題と言う事ですね。
あるバンドが、毎年の様に 全国ツアーをしているのですが、 『 田舎でもね、 スタインウェイだ! と思って 飛びついても 弾いていて疲れるピアノがあって キーボードの方がマシだなぁ・・・ って 思うことも あったから  スタジオのピアノを弾くと ホッとします〜♪ 』 そんな話をして下さった事があります。


久し振りに 浜松の町を 走りました!  随分と久し振りでしたが、 此処も懐かしい場所で 意外と 道を覚えていて 墜、そんな風景を求めて 車を走らせていました。  行きたい所は沢山あったのですが、 そんな日常の街並が懐かしくて 走りながら 近くて行った事が無かった場所の 《 浜松城 》と 久し振りに 《 浜松楽器博物館 》へ 行きました。  閉館時間が近付いていたので 観たい所だけを観る回り方をしましたが、 《 浜松城 》は 徳川家康の築城した拠点であったので 穏やかな江戸時代にナイルまでの戦国の時代に 山梨の 武田信玄との戦い等のエピソードも 数多い人物なので 興味深い場所でした。

後々の 天下人 となる 徳川家康ですが、 幼少の頃には 出生地の岡崎を離れて 現在の 静岡市に有る 《 駿府城 》 で 今川家にて 《 人質生活 》を送っていました。    多くの史跡での 歴史的人物に対する紹介文は 「素晴らしく立派だった!」 とか 「土地に貢献した有り難い人だ!」 とか その様な物が多いのですが、 この資料館を兼ねた 《 浜松城 》では 武田信玄に負けた 《 三方ヶ原 の 合戦 》について紹介されているものが、意外にも多いように感じました。  後に 天下人 となった人物ではありますが、 それだけの苦労をした事を 誇りに思っている 土地柄なのかも知れません。   

家康の 兜には 《 羊歯 》が、着けられていました。

浜松周辺の 地図を眺めていると ユニークな地名が多く在ります。  家康が、 三方ヶ原の合戦に敗れて 武田軍勢に追われて逃げる途中で  お腹が空いて歩けなくなった時に 茶屋の 小豆餅を食べたそうですが、 食べている最中に 追っ手に見つかってしまって 慌てて逃げ出すと  茶屋のお婆さんが 『 食い逃げは許さん!! 』 と 逃げる家康を追いかけたそうです。   そして 遂に お婆さんは 家康から銭を受取ったそうですが、 その茶屋の在った場所に 《 小豆餅 》  銭を受取った場所に 《 銭取 》 と言う地名が残されています。



この頃の時代を描いた小説 【 細川ガラシャ夫人 】三浦綾子/著 が、 あります。   江戸時代と言えば 《 鎖国 》の時代です。  それ以前の 戦国の時代には 諸外国から 伝来した数々のものが、 既にありました。   その頃の時代に そもそもは輸入された宗教である筈の 仏教に対して キリスト教を禁止する大名達が少なくなかった事が、 この資料からも 伺えました。

人間が生きる為に 最も必要な物の一つに 《 水 》 がありますね。  かつて 浜松城の 天守台の下には 《 井戸 》 が掘られてあったそうです。  当時の 水利は 危険回避の為に 秘密にされていたそうですが、 様々な当時の城には 同様に 城内の地下に 井戸を確保していたそうです。   浜松城
数々の井戸を 場内に掘り 又、湧水にも恵まれていたようです。


そして この城の石垣は 自然石を組み合わせて積み上げた 《 野面積み 》 だそうです。   昔は この城の隣りの小学生達が、秘密基地を作ったり タイムカプセルを埋めたり 身近な遊び場だったそうですが、 現在では 400年前の 貴重な史跡として 保護・管理をされています。 

丁度 石垣の測量をされている方のお話を伺う事が出来ました。   石垣の間に 元々あったとされている門を作る計画が進んでいるそうで その為の 石垣の測量を なさっていました。   石垣の内側には 小石や砂利が詰められていて 水捌けも良い石垣のようですが、 大きな自然石を組上げて作られている為に 長い年月の間 風雨にさらされて  互いの石の重みを支え合ってきているので 下方に積まれた大きな石は ひび割れて そもそもの形を留めていない物が 出始めているそうで  それらの進行を最小限に留めつつ 崩れる危険を回避する為にも 保護・管理をしていく必要があって  今回の様な 石の形を 1つずつ確認をしているそうです。   お話を伺いながら 石を眺めていると 丸いマークされた石がある事に 気がつきました。  数年前に これらの石が、動く変化を調べる為に マークされているそうです。   地震が少ない地域ですが、 数年前に地震に見舞われて 心配されたそうです。
そしてもう一つ 面白い話を聞かせて下さいました。  城の中に展示されてある 家康の苦虫を潰した様な顔をしている絵は 「 武田信玄に敗北した時に 余りの怖さの為に 大きな方を漏らしてしまって  その時の屈辱を 絵に描かせて 自分への戒めとした 」 と言う 伝説が有るそうです。
楽器の町で 意外な徳川家康の素顔に 触れられた時でした。

細川ガラシャ夫人(上) (新潮文庫)

細川ガラシャ夫人(上) (新潮文庫)

細川ガラシャ夫人(下) (新潮文庫)

細川ガラシャ夫人(下) (新潮文庫)

明日は 《 楽器博物館 》です〜♪