《 声 》が聴けると〜*

結局 メールの返信は 夕方のものもまとめて 夜中の2時30分に 届きました。  中央道で 私と擦違いになった娘のクラスメイトのお母さんが、渋滞にハマッテいた様子で 学校に到着したのは 夜の8時30分だったようです。

停電の復旧は 朝方5時30分ごろ。  メールの着信音で起きてしまっていた 私と息子で 直ぐにテレビをつけて 情報を得ようとしましたが、 映し出される映像は 意味不明の凄まじいもので  連絡が取れない 東北地方の友人知人の安全を祈るばかりです。
公衆電話から連絡が入って 新宿から高速バスに乗る予定だった友人が、 一晩を駅で過したとのことで  明るくなってから 1人で居るお母さんの様子を見に行くことを伝えました。  伺ってみると お母さんは 日頃お付合いの無いご近所の方が、オール電化だと知って 岩谷のガスコンロを持ってきてくださったり  親しい方には 上がれない階段の上から 暖かい上着を下ろして貰って  早めにベッドに入って 休まれていました。 

余震や 携帯の着信音で すっかり起こされて  昼夜逆転してしまった 私と 息子ですが、 主人が 『 動物達の餌が無い! 』 と 気がついて  10日に免許を取ったばかりの息子の運転で 出かけました。  車線変更も 信号機にも 車の量にも慣れていないので 『 好きなところを走って良いよ! 』 と 目的地を数箇所伝えて 出かけました

街中に入る前に 標高高い方向へと 車を走らせ始めました。   ダムの有る場所よりも 標高の高い 友人の多い清里が、心配でもあったようです。  停電と共に 断水もしていたようですが、 取り合えず 普通の生活に 戻っていました。  車のナンバーを注意して見ると 三河や 京都などの 関西方面からと 県内の観光客の方々でした。
地震直後に 天候が急変したものの  そんな事はウソの様に 快晴で 飛行機が、 八ヶ岳の上を雲を引いて 飛んでいました。   しかしながら 我が家も 《 糸魚川線 》 の真上の様な場所に住んでいますので  いつ直下型の地震にあっても おかしくは無いのです。   南アルプス天然水の生産地は 車で10分も掛からない所ですが、 河の向こう側の 南アルプスと 八ヶ岳側とでは プレートが違うので 水の質も全く違います。

車の運転に緊張した息子が、 久し振りに 清泉寮へと向かいました。  自分の運転で 想い出深い場所へ  春からの1人暮らしを前に 来る事が出来て 嬉しそうでした。  大変な時でも 気分転換は必要ですし 必要な時に 力が発揮出来るように 気分転換をすることも 大事な事です。  
初めての大きな揺れや 長い停電を経験して 更には 家を守ってくれた事もあって 息子なりの極度の緊張があった様子で 大好きなジャージー牛乳をドリンクバーで 飲んで  壊れた事の無いもたれた胃を整えて  ジャージーソフトクリームのシューアイスを摘みました。
今回の 地震では アドレスが分らないものの 息子と一緒にアメリカ遠征へ行ったチームメイトが、青森に居たり 長野や新潟でも揺れ始めた事で  全国のレスリング仲間と連絡を取り合っていました。  そして 息子と娘の友人達の居る アメリカ・カナダ・韓国からのメールが、 子ども達の所へ 届いていました。  交代で パソコンに向かって  各国へと  英語や ハングルを使って 現状を発信して居ました。   その他にも 清泉寮で出逢った友人たちも きっと日本のことを想っていることでしょう。


天気は好くて 雪は どんどん溶け出していますが、 溶けながらも 氷柱へと変わるほどの 風の冷たさです。  停電が長引き 灯油がなくなった場合には 薪ストーブの有るお宅へ 『 非難するしかないね… 』 そんな話もしては居ましたが、 そうならなう様に 家族の為に 原付で 走り回ってくれた程に 気転が利いたものの  彼の緊張は 超初心者免許の若葉マークの運転の方が、 ずっと気が楽な様子で 気分転換になった様子です。   

こちらの寒さとは違った寒い土地での 1人暮らしを目前に 自然災害のエネルギーの大きさを 初めて体感して  自分がこれから始める研究に密接な映像を目の当たりにしました。
たくさんの メールの遣り取りで 友人知人との安否確認をしましたが、 横浜で 看護師をしている姪は 『 大丈夫ですか!? 』と 直ぐに メールをくれた一人です。  後から分ったのですが、 彼女は 丁度 お台場の地下鉄に乗っていたそうで ホーム内がパニックする中で  人同士のぶつかり合いでの怪我を防ぐ為に 冷静に行動して  火災を目にしながらも レインボーブリッジを友人と歩いて渡って 安全確保に努めていながらも メールをくれました。
義姉のお父さんお母さんが、釜石の海辺に住んでいるので  義姉にやっと電話が通じて 様子を聞きましたが、 地震直後に お母さんと連絡を取ったときに 『 お父さんが浜に出ているから 今から迎えに行く 』と 電話で話をした後に テレビで直ぐの津波が来たことを知って 未だに連絡がついていないそうで 兄が、『 無茶はしないから 行ける所まで行く! 』と 峠越えの道を選んで 現地に向かったそうです。
息子も 『 ボランティアに行きたい! 黙っていられない…。 』と 言い出していますが、 テレビ以外の 信金者からの情報も入ってくると  一般のボランティアレベルの人たちの居場所さえ無い状態であることが判ってきて  色々と考えているようです。
姉に 電話をしてみると 停電が一番長かったのは我が家のようでした。  娘も もうちょっと判断が遅ければ 学校で夜を明かす事となっていたでしょうから。  メールをくれた姪たちは 『 今、 自分に出来る事! 』 と言って 《 献血ルーム 》 へと 出かけたそうです。
 
被災者の皆さんの より安全を お祈りいたします。