現代音楽の原点には教会音楽があります


私は 山梨県の住人と成って 14年余りとなりますが、 その前の20年近く前から  何かとご縁のある場所でした。   思うところあって 勉強の他に 考え事もしたくて選んだ カトリック系のミッションスクールの高校は 幼い頃を過した場所の 近所にあった 何かと遊びに行った サンタマリア教会とも 関わりの有る学校でした。
サンタマリア教会には 当時、 日本語が使えないシスター達が居て アメリカンスクールの様な 施設(幼稚園? 孤児院?)もあって ブランコに乗りに行きました。  そこで 必ず喧嘩になる アフリカンの男の子が居て  でも喧嘩になって 帰ろうとすると 泣くのです。
母校となった高校で出会った担任は 私が 山梨ヘ よく行く事を知ると 『 その場所から近いから 神父の叔父の所へ行きなさい! 』 と 良く言ってくださったのですが、 正確な場所が分らなくて  舗装されていない道を行くような場所だったので行くことはありませんでした。   結局、 越してきてから 正確な場所を知ったのですが、 間も無く亡くなられたと 友人達から聞いて 非常に残念でならず、 『これからは 後悔する前に押掛ける!!』と 以来 心に誓っています。
その代わりに〜  と言うわけではないのですが、 友人知人から 『 ノルウェー人の牧師先生がいらっしゃるよ! 会ってみて!! 』 と 言われる事が多くて  洗礼も受けていない私ですが、  教会の敷居の低さを知りつつも  なかなか伺うチャンスが無かったのです。   ご縁といいますか タイミングといいますか  来るべき時は来るもので あっさりと フロイラン先生ご家族との出会いに恵まれました。   年に 数回のみの礼拝出席ですが、 その度に 驚かされる事が沢山在ります。   最近の ヨーロッパのキリスト教の方向性の1つなのだそうですが、 カトリックも プロテスタントも キリスト教と謳う新興宗教(此方は正しいキリスト教を学んで頂く意図もあります。)も その他の新興宗教も含めて  共に 祈りることを目指しつつあります。      

このピアノも  初めて この教会でその姿を見た時に 以前に置かれていた場所を尋ねつつ 言い当てると 驚かれたのですが、 ピアノが 『 私だよ! 』 と 呼びかけてくるようでした。   実に 不思議なご縁の有る方々と 出会えたり 再会をさせて下さっている場所です。

母校の 恩師の 叔父様は カトリック神父でしたが、 プロテスタントの牧師先生の間でも有名な方でした。  その恩師のお母さまは 娘の先輩に当たる山梨出身で 曽祖父に当たられる方は 山梨の新聞や そのほかの事柄の設立に 大変関わられた方でした。    今回の震災にあって 塩釜で 奇跡的に 生きていて下さった事を確認できた時には 『 何故、 もっと早く 同窓会を兼ねて 叔父さまの墓参りをさせてあげられなかったのだろう・・・ 』 と 思いました。  兎に角、 何とか 今年は会うことを思っています。

私の尊敬する人物の1人に 故・林竹二 と言う プラトンを研究されていた哲学者で 教育学者である方が在りますが、 無神論者に近いと仰りつつも キリスト教的な思考であることを 著書にも書かれてあったことを読んだ時には 宗教=哲学=物事の考え方=自分と言う人間の在り方を考える事だと思いました。
音楽に関わりつつ 沢山の方々と関わる仕事を選んだ事が、 不思議なくらいな位に 校内暴力や受験戦争時代に育って 人間不信になっていた私ですが、 だからこそ今があるな〜♪ と  今日 考えていると 1枚の葉書が届きました。  世が世ならば お城に住まわれていた方から届いたものですが、  息子が身体を壊して 通学できなくなった時に 算数を通り越して  数学 の楽しさを伝えて下さった方です。  この方とも この教会で 再会しました。  子供達の成長を喜んでくださっている葉書でした。  近々、 息子の元へ 送ります。

この教会を介して電話で知り合うこととなった方とお話をしていると 又く違う話題から 『 ベルトーンと言う 大好きなピアノを ある調律師に 「もう駄目です。」と言われてしまいました…』とのことでした。  そういった相手が大体見当がついていたので 『 自分のところに手頃な中古が有ると言われませんでしたか? 』 と 尋ねると 正に!!  単に メンテナンスが面倒臭いのと 出来ないのと 売りさばきたいだけで  他にも 入替えたり 貴重な楽器を商ケースの様なものに閉じ込めて 直すことを提案しなかった ピアノに対する趣旨の全く違う 仲間ではない事を伝えました。     道具としか思っていない演奏家もあって 『 自分の音が出ない、出せない ダメな楽器!! 』と 距離を広げて  ご不満な状態で 演奏をする方も在りますが、 逆に 『 どんな音が出るのだろうか!? どんな音を出せるのだろうか!? 』 と 楽器に歩み寄られる プロの演奏家も少なく無い事をお話しました。   どちらも プロには代わらない 心構えでは在りますが、 それら全てが 音となって現れることを知って欲しいと思いますし  聴く側は 非常に疲れます。    勿論、 調律師の仕事の態度も 音に表れます。 
想い出の深い楽器が、 たとえ 求める音を奏でられなくても 共に過した時間は 他の楽器にはありませんから。 
そして 持ち運びの出来ないピアノは そこに有るものを 演奏家は弾かねばならないのですが、 それならば 『 クセはあるけれど 面白い楽器だった! 』 と 心に残る演奏をして頂きたいものと思いながら ピアノと向かい合います。