ピアノや楽器 恩師の想い出

はてな 】 の お題 《 楽器に関する思い出 》 に 初挑戦してみます ♪
昭和10年に生まれて 新潟の山の中の社宅育ちの母の憧れによって 積立をして買った 小さな ピアノ が、 10歳年上の姉の オモチャ代わりだったようで  私が物心付く頃には 姉は可なりのレベルの曲を弾いていました。  
  その様に理解をする前に ピアノ と言う楽器を意識する様になった切っ掛けを作ってくれたのは  毎年 調律に来てくれていた 髭を生やした調律師でした。

私の古い記憶の1つですが、『 お邪魔にならないように 外で居ようね。 』 と連れ出されて 近所で 家の中から聴こえてくる 不思議なピアノの音を聴いていました。  『 そろそろ終わるようだね。 』と 母と 姉に抱かれた私は家の中に入って 母と姉が、お茶の準備をしている隙に  ピアノに向かって歩いていきました。  「 黒鍵が 見えるか見えないか!? 」 その位の身長でしたし  弟も 未だ生まれて居なかった筈なので  多分、1歳半 位だったのでしょう。   ピアノを弾いていた 調律師 のおじさんが 『 中を見たいの? 』 と 声を掛けるか掛けないかの内に  私を ヒョイと抱上げて  一番上の蓋を開けてくれました。  『 見え難いけれど 動くんだよ! 』と 中を覗き込ませながら 鍵盤を弾いてくれたのです。
それからは 自然と 家で聴いていたレコードや 幼稚園の先生が弾いてくれた 歌 の曲を 音を探しながら 習っても居ないのに メロディーを弾くようになりました。  昔は デパートでも ピアノは売られていましたので 黒鍵と白鍵 が並んでいる 楽器 を見ると 駆け寄っていたことも 懐かしく想い出されます。  


5歳になって 姉の数人目のピアノの先生の元に 一緒に通い始めました。  姉は完璧主義で 曲を完成させた状態でなければ 人前では弾きませんでしたが、 学校行事 等での代表として 人前で弾く事は 大好きでした。   ですから 自分のレッスンを 幼い妹にでさえ 見られていることは 可なり嫌な事だったと思います。   姉のレッスン中の シューマンの小品や ベートーヴェンソナタは 後の席に座りながら  音階で歌っていた記憶もありますから 家に帰ってからの練習では よく『 今のところ 間違ってる! 』 とチェックを入れられました。  姉はとっくに終えていた曲ばかりです。

間も無くやってきた 私の 発表会デビューは 池袋駅近くの 豊島公会堂 でした。  雨が降る日で 近所の 個人タクシーの運転手さんに 送って貰いました。
発表甲斐の順番は 小さな子ども達からでしたので  私は 確か 3番目だったと思います。  始めから 両手を使う 教本の中にあった 《 ブンブンブン 》 でしたが、 舞台の上に居た時間は 3分弱。  緊張して 間違えたことも ハッキリと覚えています。  それでも 1曲しか弾けない事や 短い曲だった事が残念で  図々しくも勝手に「もう1曲を弾こうか」と 弾き終えた途端に思ったものです。
幼稚園の時には 鼓笛隊の指揮者を仰せ付かったのですが 『 ピアニカをやりたい! 』 と 大泣きをして  名誉有る代表の座をあっさりと クラスメイトに譲りました。   それ程までに 鍵盤楽器が好きだったのでしょうね。   小学校に上がってからは 学校の合奏の時間で  色々な楽器に触れるチャンスに恵まれました。    毎週の全校集会の時に 必ず演奏する鼓笛隊では 懐かしの指揮者のバトンを持ちました。  その時も『 小太鼓がやりたい!』 と 希望を出したのですが、 『 ダメ! せめて副指揮者は やりなさい! 』 と バトンを渡されました。  日頃から 出鱈目に オルガンやピアノを恥ずかしくも無く弾いている姿も 音楽の選科の先生には見られていたようでした。  
小学校の学年が変わる時に 水疱瘡にかかって  通学が出来なかった時には 兄が、『 これから習う リコーダーだよ 』 と 退屈をしない様に 教えてくれました。  両手を使うけれど メロディーを歌うように吹けることが楽しくて 直ぐに覚えました。  後に 中学校に入ってから 音楽の選科の先生に 『 良い音出すね〜! 』と お褒めの言葉をテスト中に頂いたのですが、 同じ教材用の楽器でも 吹く人によって 音が違うことを 意識させられた瞬間でした。  引越しなどの際に ご近所でであった N響 の団員だった先生に ヴァイオリンを数年間 習うチャンスにも恵まれました。  

他の音楽の選科の先生からは 『 音大の声楽科を目指さない? 』と ずっと言われ続けたのですが、 趣味のようなものを専門的に学ぶ事をイメーが出来ずに 獣医師になることの夢を持ち続けたまま 普通科のミッションスクールへと進みました。  ミッションスクールでは 日常的に 歌を歌ったり 楽器と触れることが 実に多かったのですが、 そこでも『 声楽科へ 』と薦められたものの まるで人事のようにしか思えませんでした。
大学受験を控えていたある日  ピアノ の 中を写した 写真が掲載されていた ピアノ調律師養成の専門学校 のガイドを見ました。   ずっと大学進学を目指していましたし  入試の願書も提出した矢先の事です。   その ピアノの内部の写真を とても懐かしく思い 『 奇麗だな〜♪ 』と思いました。  そして 『 やってみたい! 』 と言う気持ちが、勢いよく湧き上がってきました。
全ては 我が家にあった小さな KAWAI K−2 のアップライトピアノと 髭の調律師 によって 刷り込まれていた何かが、大きな宝となっていたのでしょう。 
実際に調律師となって 忙しく走り回りました。  結婚をした時に 披露宴に出席してくださった 調律の恩師達は 『 仕事を辞めるのか? 』と 帰られる時に 次々と声を掛けに来て下さいました。   後に 育児で 一旦は現場を離れましたが、 自分の技術を元に戻し それ以上に高める努力は その写真によって出会えた 師匠である 先生方の支えがあります。  専門学校を卒業して 業界から離れて何年も経ってはいましたが、 『 お前が戻ってこないかと思って 怒って居たんだぞ! 』 と言いながら 力を貸して下さいました。
今、 その恩師は ひとり また ひとり、と旅立つ年齢になっています。  昭和一桁生まれの 恩師が、 苦労して身に付けた 《 技術 》を教えてくださる事で 『 俺達が時間を掛けて苦労をした分、お前が早く習得できた事を生かして 早く先に進みなさい! 』と 口を揃えて その様にご指導をくださった日が、 懐かしく想い出されます。  
感謝し切れません。
そして これらの幼い頃からの経験は 現在の自分の仕事にとって  大変 役に立つ事ばかりです。