韓国修学旅行へ行きました〜♪

3月に入ってから ずっと真冬並みの冷え込みです 
待ちに待った 修学旅行の日です。   朝 3時30分 氷点下5度(真冬でこの気温は暖かいけれど 一旦暖かさに馴染んだ身体には寒いです)の中を 甲府駅前の集合場所へと 向かいました。  『 遠くから来るから 早めに行って 万が一 何かがあった時に困らないように 待っているからね! 』 と 集合場所から近いお家の お母さんとお嬢さんが、 早々に来て 待っていてくれました。   途中で 車が故障したり 高速道路の事故の通行止めに遭って仕舞ったり 何かがあった時に備えてくださったのです。  本当に 有り難いことです。

現に 息子の沖縄修学旅行時に 別々のバスに乗ることになっていたクラスメイトが 「まさかな!?」と 思いながら 出発前の点呼を取っている時に 何となく息子が電話を掛けたら 『 出ない!! 』。   慌てて 担任が 其方のバスへ見に行くと 『 姿が無い… 』。  そのうちに 大きな団体なので バスは出発せざるを得ず…。   息子が掛けた 電話の着信音で 家族一同 目が覚めたそうで  慌てて 羽田まで追いかけた〜 と言うエピソードがあった話を お母さんに伝えると  『 本当に有るんだ…(汗) 』 と 苦笑。   更には 某高校の修学旅行時に サービスエリアでの休憩後に 出発してから 『 1人足りない… 』 と 気がついて 大騒ぎになったそうで  比較的に狭いサービスエリアながら 人混みや 団体バスの利用の多さなどから 迷子のなっていたようで 結局 タクシーを呼んで 追いかけたとか…!?

今回の 娘達の修学旅行は 沖縄・長崎行きとは違った  日頃から ハングル語 を 選択している生徒と 希望者を募った 韓国姉妹校との交流を兼ねた もので  39名の募集に 毎年2〜3倍の希望者が在って  第3次選考の課題を出されて  先生方が、 泣き泣き 選び出す・・・ と言う話を 歴代のOGの保護者から聞いていたので  すんなりと38名が決まった今年は珍しかったそうです

韓国と 日本の関係は 現在の日常的な事も含めて  非常に関係深いものが、沢山あります。    朝鮮半島の中で 国が、分断されて  生き別れになった家族もありますし  日本で生まれ育っていると イメージをすることが難しいことも多く在ります。   都会では 朝鮮学校と呼ばれる教育機関があって それを地元のお母さん方に伝えるのにも 『 アメリカンスクールみたいなもの。 』 と 言い換えると 何となく分かったのですが、  比較的に在日韓国人の少ない また プロテスタント系のミッションですと 関わりが少ない土地柄でも有るので  今回の 修学旅行は 韓国ブームの観光とは違って 38℃線の展望台にも行く予定が組まれていますので 感じ取るものは計り知れないと思います。
昔、 戦争によって 日本は大きな過ちをたくさん犯してきました。  それらは 結果として 過ちだと 分かったものです。   現在進行形の最中に 過ちだと解っていながらに 命令を発していた 軍人達の存在もありますが、 どちらにしても 【 戦争 】 と言う行為そのものを 過ちだと 私達は知ることが出来ました。

ずっとアイディアが浮ばなかったのに 娘と 家を出る間際に ふと、思って 新品の 《 ハンマーの キーホルダー 》 を 1泊 お世話になる ホームステイ先の 同い年の女の子に渡して欲しい! と 伝えると  『 こんなのを〜? 』 と言われるかと 思ったのですが、 すんなりと 『 うん。 』 と頷いて カバンに入れました 
集合場所の 甲府駅前へ 向かう道中の車の中で 『 お母さんの お父さん、お祖父ちゃんは 朝鮮生まれの 朝鮮育ちだよ。 お祖父ちゃんのお父さん、曾祖父ちゃんが 日本が挑戦を統治していた頃の 税務署の所長さんだったから 転勤で 韓国も 北朝鮮の上の方まで 色々な所で 住んでいたんだって。  日本人女性の高齢者ホーム訪問の時に お祖父ちゃんと同い年や その上の方々がいらっしゃる筈だから たくさんお喋りをしてきてね! 』  と 話し始めると 黙って前を見ていた 娘の視線が、 こちらを向きました。  以前にも 話をしたことがあった筈ですが、 身内が アジアの諸外国生まれの 諸外国育ちとは 少し前ならば 祖父母に当たる人達がその様な経歴を持っていることは 多くあったと思いますが、 娘達世代となると 昭和一桁生まれの 戦前戦中派の 祖父母 の世代ではなくなってきています。    『 終戦間際に 転勤があって  朝鮮半島の 下のほうまで降りてきていたから  部下の人達が用意してくれた 2艘の 闇舟 で 玄界灘を渡って 日本にやっと帰ってきたそうだけど  目の前で 家財道具を積んだ舟が 沈んだそうだよ。  朝鮮での 貴重な家族写真を ずっと昔に見せてもらったけれど  曾お祖母ちゃんは 日本髪に 着物姿で  お祖父ちゃん達兄弟は 真ん丸眼鏡をかけて 半ズボンを穿いて 正座して  立派なお座敷で撮っていたよ。     お祖父ちゃんの 生まれ育った場所を 多分、 お母さんは 見ることは無いと思うから 代わりに たくさん観てきてね。 』 と 話すと 未だ暗い早朝の車内で 再び 娘の視線が、強く 硬いものとなって こちらを見ていることが判りました。 


娘達の 成田へ向けてのバスを見送った際に  一瞬 こちらを向いて ニッコリと微笑んだ 娘が、 ちょっとだけ 手を上げて 『 行ってきます 』 と 呟いたように 見えました 
送り出した帰りは 急ぐことも無いので のんびりと 真直ぐに伸びる 国道20号線で 帰ってきました。  真っ暗だった空が、 段々と光が放たれて 山々の稜線が、 浮かび上がって 来ました。 

日が昇り始める前の 朝焼けの中で 富士山が、 浮かび上がり  未だ 暗さが残る 空には 明星が、 輝いていました。

数時間後の 10時30分頃、  航路となっている 我が家の上空を 通過していく 旅客機のエンジン音が 空高くから 聞こえてきました。  多分、 娘達が乗った便だと思いながら 空を見上げました