自然界の中での確実なる進化・変化を感じています

まだまだ 梅雨 が開けていませんから  何となく 雲の掛かった すっきりとしないお天気が続いていますが、 気温は上がってきました。   知人の皆さんとの挨拶に 『 今年は 何だか、 何時までも 肌寒いですね。 』 という言葉が、自然と出ていました。   標高900m〜1300mを超える所では 『 高原の爽やかな風 』 が、 抜けていきます。  何年被りに 梅雨前からの長雨も降りません。  20年程前までは 当り前だった天候です。
それでも 娘が毎日通う 甲府 では 30℃近い 夏日となってきています。

苺を育てていた プランターの隅から 顔を出した 双葉だった エゴノキ が、 今年は 一段と多くの花を咲かせ始めています。   涼しい風と共に その甘い香りが、 家の中での作業をしている 私の元まで 届きます。     花を眺めに 木の下まで行くと  なかなか気温が上がらなかったので やっと出てきた ハチ たちも 忙しそうに 羽音 を立てながら  花と 花とを 行きかっています。   受粉の終わった 花 は さっさと花弁を落とします。  既に 木の根元には 白い花弁が、降り積もっています。
多くの実が生れば 秋には沢山の野鳥達が、 やってきます。


戦前のピアノ達と接する時が多いので  改めて 日本のピアノ作り を調べています。  時々は 忘れかけてしまっている事を確認をしてはいますが、 調律師として 年を重ねていくと  今まで感じなかった事柄を振り返りたくなったり  20年程前までは まだまだ当り前だと思っていたことが、 とっても昔の事のようになってしまっていて  時代が変わってきたことを感じる様になってきています。
パソコンのネット社会のお陰で 出会えた方々も在りますが、 偶々 戦前の 私が特に調べたいと思っていた頃の ピアノを修理されて  又 当時のカタログをお持ちの 調律師の方が書かれた お話を読むことが出来ました。   悩んだ末に 思い切ってお電話をして お願いをして見ましたところ  快く 当時のカタログのコピーを 送って下さいました。   本当に有り難いことです。   早速に送って頂いた コピーを見てみますと  子供の頃には ピアノの先生のお宅や 友達の家などでも見ることが出来た デザインのピアノ達が、 並んでいました。   それらのデザインのものが、 何時頃まで作られていたのか!?は メーカーの社員ではないので 分かりませんが、 多分 同世代の調律師でも 自社ブランドの 昔のデザインの事は分からなくなっているとは思います。   注目は 丁寧に書かれている 宣伝内容と  ピアノの価格表 です。   当時は ピアノを買うためには  家 1件分程の 貨幣価値と思って その文章の内容や 価格を見ると  当時をイメージする幅が、 広がってきます。


ロシア人の イリヤさんと アレクセイさんの コンサートの演奏後に 『 あのピアノは 40年前に作られた楽器です。』 と お話をしたのですが、 お二人共に 『 そんなに古い楽器だったの!?  とても好い音がする!! 』 と 驚かれました。 『 昔の楽器でなければ 出せない音 が有るでしょう? 』 と言う話題から お互いの国や 一般的にはマイナーながらも 好い楽器を創っていた 国の話になりました。  そして 日本でも同じことが言えるのですが、 時代の流れと共に 小さな会社の 好き楽器のブランド名が消えつつある事も 互いに感じていることのようでした。  ロシアの様に 比較的に最近と言える時代に 革命的な国内が大きく変わるような経験をしている 諸外国も在りますが、 その様なことからの ピアノ職人達への影響も 少なからずあって  国が 現代的に オープンになっても  返って 今までの素朴な生活を守れずに 「 質素から 貧困 」へと 言葉が変わってしまう事に成ってしまい 移民となって  似た環境の国での 再スタートを切られた 職人達の話を聞いたことがあります。
日本は 島国なので  国内での戦国時代はあったものの  他国からの大きな弾圧や侵略などは少ないまま 比較的に独自の道を歩んできた国といえるでしょう。  明治維新を迎えた際には 侵略や 植民地化を防ぐ為にも  西洋の文化を即急に取り入れる必要がありましたが、 その変化にも 順応性を発揮して行き  そのお陰で 今日の 私達、調律師の仕事は 有るといっても過言では無いと思います。   但し、 調律師の草分け的な方々の時代にも 既に お気付きの方々が在られたのですが、 このままでは 『 ピアノを 自分たちの手で創ろう! 』 と 試行錯誤しながら研究してきた先人達の意思を蔑ろにしてしまう時が、 着つつあるようにも感じます。   それは 楽器業界に限らず 日本の 物つくり の精神 と 経済 のバランス的な事も問題だと言う意味が、 大きく含まれています。   


ドイツの 老舗ブランドの事を纏められた本を 再読している最中ですが、 その他の本も含めて 読み落としている内容の多さに  気が付きました。  そして その中に 私が知りたいと思っていることへと 更に近づける 参考になる 本の 著者名なども 当時の現役だった人として紹介されて有るので  調べてみて 早速買った本が、 この褐色になった 懐かしい装丁の 文庫本達です。   今でも ピアノの微調整を要する箇所には使われている パラフィン紙 が、 カバーの時代の古本を選んでみました。   造反された時に 装丁が変わった年代のものもあったのですが、 同じ価格で 売られているのだから あえてコンディションの好い 古いもの を選びました。   この様な文庫も 昭和一桁生まれの父親は 多く持っていたことが、 懐かしく想い出されました。

日本のピアノは 全てが、 諸外国で作られていた 楽器 の コピー からのスタートです。   現在では 日本での製造は 100年を超えましたが、 全くの異文化の中で 育まれてきた楽器を 形や 構造的には 器用な日本人は 比較的に容易に コピーしたり  輸入部品を組み立てていたことは 考えられます。   今でこそ 多くの一般家庭に普及している ピアノ ですが、 明治・大正・昭和の始めに 今後の需要を見越したことも含めて  西洋音楽にさえ 馴染みの薄い日本人が、 西洋の楽器を作り始めた訳ですから 日本人の作る ピアノ は 長い歴史を持って ピアノと触れてきている 諸外国の方々から見て取れた 『 なんか変 』『 なんか違う 』 と思えることは  日本で 西洋から取り入れた その他の様々なものでも 同じ様に感じられていやことが有るはずです。  良し悪しの問題にも 至る部分もありますが、 スピリット的な違い を読み取れるものだと思って 楽しみながら 読み進めています。
現代 私達が耳にしている 大よその音楽の根底には 信仰心の有無に関係なく 《 教会音楽 》 の 発達の上に有るのですが、 元々は 砂漠地帯で たった一人の人物が、 たった数年間のみ伝道していたものが、 その様な形でも 現代の日常生活の中で 変化をしています。  その様になっていった背景には 長い間の様々なドラマがあった訳ですが、 一番分かりやすく 簡単に広められた方法のひとつに 『 字が読めなくても 聴覚があれば 歌によって 耳で聞いたものを感じ取って 真似をしていく 』 事があったのでしょう。  ピアノや ヴァイオリンや フルートの先生方と 『 音痴って 元々からじゃなしものだよね!? 』と そんな話題にもなったことがあります。
娘の学校の宗教主任の牧師先生が 『 矢切の渡し の曲を 「連れて〜行ってよ〜 」って 歌った人があって 「先生、これは聖書の言葉じゃないですか!?」と言ったんですよね。  昔のヨーロッパの酒場でも 同じことがあったようで〜 』と 皆さんに お話をして下さったのですが、 矢切の渡し の歌詞は 『 連れて 逃げてよ〜♪ 』 ですね。