声無き 声を伝える日

66年前の今日は 6日の広島原爆投下に続いて 長崎にも 原爆が投下された日です。
大きな入道雲を見ると 広島の原爆ドームと 資料館を想い出します。  山の中に在る 一族の墓参りに行った時に 立ち寄った場所です。
少し前にですが、 いつもお世話になっているアーティストの タテタカコさんが、松本で 《 ミサコの被爆ピアノ 》 を弾く LIVEを行いました。  残念ながら スケジュール的に聴きに行く事が出来なかったのですが、『被爆ピアノの管理をしながら ピアノと日本中を旅している調律師さんは ご存知ですか? とてもユニークで素敵なな方でした。 色々な思いを込めて 弾かせて頂きました。』と その様な内容のメールを下さいました。

私の父方は 広島にルーツがあります。  しかしながら戦時中の父達家族は 朝鮮半島で生活をしていました。  祖父は 税務署長だったそうで 転勤が多く 終戦直前に 偶々南下していた事から 部下に用意してもらった舟で 何とか玄界灘を超えて 日本へと戻れたことを 小さな頃から 夏の帰省の度に 親戚一同が集る場で 聞かされてきました。  父が一番印象的だったことは 目の前で 家財道具を積んだ舟が沈んでいった事だそうです。  ですから 戦時中は裕福な暮らしをしていたにも拘らず、 全財産をなくして帰国をして仕舞い 祖父母は福岡で洋品店を開いたそうですが、 その後は 新幹線の開通などもあって 今で言うビジネスホテルのような旅館を営んでいました。   何時だったか、祖父母から 朝鮮の何処の家で撮った物だかは分かりませんが 唯一の当時の家族写真を見せて貰った事があります。  祖父は洋装だったと思いますが、 祖母は 日本髪を結って 着物を着ていました。  父達男兄弟は 半ズボンを履いて正座をして 確か、蝶ネクタイを着けていた様に記憶していますが、一番印象的だったのは伯父達と揃って 幼い父が真ん丸の眼鏡を掛けていたことです。  末の叔母は 未だ赤ちゃんで 祖母に抱かれていたと思います。


長野県の中学生の修学旅行は 関東地方ではかつてのお決まりの 京都・奈良で 息子が中学生の時にも バスで名古屋まで出てから 新幹線に乗って行きました。  しかし その年の先生方が、代表生徒を広島での平和記念式典に引率した経験から 『 強行軍ですが、広島原爆ドーム見学をオプションで加えます。』と スケジュールを変更しました。  名古屋から新幹線に乗って広島まで行って  京都のホテルでの 遅めに設定してもらった夕食の時間に間に合わせるものでしたので ちょっと心配でしたが、 当時 修学旅行から戻った息子は 『 原爆ドーム、見れて 好かった。 』 と 一番最初に言いました。
関東地方で育つと 東京大空襲や 関東大震災の教育を何かと受けますが、信越地方は 比較的に 戦国時代以降は穏やかな時が流れているので  県民性や地理的な位置関係の事もあって 教科書に書かれてある内容を読んでも 漠然としてしまっている事が多かったそうです。
この春 娘達の修学旅行は 沖縄・長崎でしたが、 ハングル語を選択していたこともあって 同じに日程で 姉妹校の在る韓国へ 27名のメンバーと共に 娘は行ってきました。   未だ暗い早朝 中央道を走って集合場所まで送る時に 『 お祖父ちゃんは 韓国で生まれて 北朝鮮となった場所でも住んでいたんだよ。 お祖父ちゃんの生まれて育った所を見て着てね。』と話すと 娘は息を飲み込みました。  まさか近い身内が、韓国と関わりのある人だとは 思っても見なかったそうです。 
私の世代でも 既に 戦争の話は 両親から聞くものでは無くなっていて  祖父母の時代の事となっていました。  私は 姉と兄と 歳が離れていた事もあって 弟と共に 母から『田舎の学校の裏山に B29 が、爆弾を1発落としていって 小学校の窓ガラスが、全部割れた・・・』と言う話を何度も聞かされました。
  
暑さでグッタリのNOЁL

様々な語学を学ぶ時間が比較的に多く 様々な国の方々と接する事が 幼い頃から多い子供たちですが、 その国の文化や歴史に触れつつ 過去や現在の その国から見た世界情勢についても  その言語を使う国の方々からお話を伺ったり 逆に日本について説明をしなくてはならない事もありますし 自分なりの意見を考えて 持つ必要性が事が多いことは とても大きな事だと思っています。
世界で唯一の被爆国で 大きな原発による惨事を招いてしまったのは 娘が韓国から帰って来て 3日後のことでした。
レスリングの親善試合選抜メンバーとして 正月早々に オバマ支持派の多いワシントン州へ ホームステイをしながら数箇所を訊ねた息子は 対戦相手の高校生達とは ゲームや 日本車の話を楽しんできたようですが、 それよりも パパさん達との世界情勢についての語らいが、印象的だった様です。  そして 国土の広いアメリカでは 原発による電力供給を主に行っていますから 今も メールで パパさんと色々な話をしているようです。
小さな時に 井の頭公園で見た 長崎の記念像の原型は 忘れてしまったかな〜?

ミサコの被爆ピアノ

ミサコの被爆ピアノ

世の中への扉 海をわたる被爆ピアノ

世の中への扉 海をわたる被爆ピアノ

 
ピアノと共に旅をする 調律師・矢川さんが書かれた本も 出版されていました。