子供たちに囲まれている 昭和8年生まれ《根津さんのピアノ》

今年のカレンダーも 残り 1枚となりました。
クリスマスのお祝いに向けて準備され始めた方や アドヴェントカレンダーをめくり始めたお子さんもいらっしゃることでしょう〜☆
少し前ですが、御茶ノ水にある㈳日本ピアノ調律師協会での研修会へ出席した際に 久し振りに会った方から『古宇田さんのブログ、呼んでいますよ〜♪』と声を掛けて頂きました。 確かに同業者に読まれていることを自覚しつつは書いていますが、恥ずかしくもあり 「ボケた事、書いてないかな…」「偉そうに 間違った事を書いていないかな…?」と再確認出来る時でもあるので 嬉しいものです。

段々と空気が冷たくなってきました。 と言うのを通り越して 寒すぎるこの頃です。 そのお蔭で 晴れれば、この様に見事な姿の富士山を眺められる楽しみや 星の数が多過ぎて 目が廻って仕舞いそうになるほどに 夜空へ吸い込まれていきそうになります。
そんな平和な天候ならば素晴らしのですが、今日は 朝から強風と共に 怪しいダークな雲が、西の空を覆い始めて 黒猫のドロップが、何やら白くなって戻って来た位に 霰が降り始めて それから雪が舞い始めました。 雪が舞う事は 遠くの山の上に降ったものが飛んでくるので 11月にもなれば 度々ありますが、今日は『明日、車出せなくなるかな…?』と心配が過ぎって 急いでスタンドへ 冬タイヤへの交換予約を入れて 作業して貰いました。 その間、幾つかのメールが届いたのですが、『只今 タイヤ交換作業中!』『タイヤ換えた?』ばかりで 可笑しかったです。 

今年の春、自宅での修理作業を進めていた時に 何と無く聞いていたFMラジオから『リスナープレゼントは、硬式ラケット、1名様です!』という声に 俊敏に反応してしまって 急いでPCを起ち上げて 応募してみると してみるモノです!! 次の日に花束をペッチャンコにしたような不思議な形のものを抱えて『FM-FUJIさん、からです〜♪』と佐川急便のお兄さんが、届けてくれて 玄関先で 『珍しいじゃないですか!リスナープレゼントの当りを届けられるなんて〜!!』と一緒に喜んでくれたことは既に何度も このブログでもご紹介しましたね。
そのラケットが切っ掛けとなって 市内に インドアのオムニコートがあることが分り 月2回コースのレッスンを開始しました。 コートに立つのは 15年振りで はじめの3か月ほどは、自分でもどうしょうも無いな…と呆れる程でしたが、段々に感覚が戻ってきました。 と言っても まともにゲームになる程ではないです。 それでも 身体を動かして レッスンでご一緒させて頂いている皆さんと お喋りをして 大きな声で笑い合ったりできる事は、とても楽しいものです。 定休日が作れないのですが、「この日は、テニスに行こう!」と思える楽しみがあると 色々な事が頑張れるようにもなります。

子供たちの学年が違っていたり 互いに仕事を持っているので 誘い合ってランチに行ったり お茶をする訳では無いものの 会えば立ち話が楽しめる友人に『インドアのテニスコートがあったんだよ〜〜!!』と話すと 『お試しできるかな?』と 早速、体験に来てくれて 同じ日に行ける様に互いに調整をしつつも それぞれがマイペースで行ける日に通う様になりました。

とんぼ

食べログ とんぼ

洋風厨房 のんき

食べログ 洋風厨房 のんき

この辺りは観光地でありながら 住んでしまうと 意外と色々な場所に足を運ぶ以前に 「何があるのか?」に興味を持つ暇もないものなので 一緒にテニスへ行ける日には、テニスのショップを見に行ってラケットを選んだり ランチをする楽しみが出来ました。
そんな彼女が、テニスを始める前から習っていたものが、トールペイントなのですが、鞄からキーホルダーを取り出して 『親しい人たちへ上げているの。良かったら貰ってくれるかな?』と 渡してくれました。  私も「トールペイントを習ってみたい」と思っていた事があったので 手作りの作品を貰うなんて とても嬉しい事です!  『何年か経て 千葉の家へ帰ることがあっても 貴女なら 平気で遊びに来てくれそうだし 面白いよね〜!』『うん、成田どころか、水戸辺りの距離なら 日帰りで遊びに行くよ〜!』と 互いの子供たちの成長を実感しつつ 近い将来の話題にもなりました。
 

今日のピアノのお話は、これも又 随分と前になりますが、確か このブログでもご紹介したはず〜!?だと思いますが、ブログを始める前に出会ったピアノだったかな?と 記憶が定かではな無いのですが、市内の小学校で 毎日 児童の皆さんが、弾いてくれているピアノです。

作られたのは、昭和8年。 東武鉄道の事業に関わられたり 武蔵野音大のご近所にある 武蔵大学創立者根津嘉一郎氏が、昭和5年から8年に掛けて 山梨県内の200校もの小学校へ ミシンや顕微鏡と共に贈ったピアノの1台です。 《YAMAHA No.1》と言うピアノで 現在の小学生のお祖父さん、お祖母さんに当たられる世代の県内の方々は、皆さん この《根津さんのピアノ》の伴奏で 唱歌を歌われています。 「何故、200台ものピアノを〜?」と思う事もあったので このピアノと出逢った頃に少々調べましたらば、YAMAHAが多くの事業に参入して 少々、お金の回転が悪くなった時期と重なっていました。 所謂、救済処置の一つとして 根津財閥が、小学校への寄付を名目に 多くのピアノを買った様です。 当時は、未だ木造校舎出た事は言うまでもありませんが、多くのピアノ達は 校舎解体の時に 一緒に廃棄されたものが多いようです。
《根津ピアノ》
《根津さんのピアノ》では無かったのですが、同じ頃に作られた 《YAMAHA No.100》と言うピアノが、20年程前に廃校となった山の中の分校にあったのですが、村の方々が見守る中で 重機で一気に公社が壊されていったそうですが、2階の壁が剥がされた時に ピアノの姿が表れて 慌てて皆さんが2階へ駆け上がって 10人掛かりで 必死に下して来たというピアノがあります。 そのピアノは埃が舞い上がらない様に 放水しながら作業を進めて居た為でしょうか、水を被ったとは思えない程に綺麗な状態で アクションなどの整備は出来たのですが、音を合わせようとした時に 「ん…?」チューニングピンが動かないのです。 様々な個所のピアンを確かめてみたのですが、動くものが見当たらない状態。 多分、チューニングピンを支えている【ピン板】が湿って仕舞って 打ち込まれているピンの箇所だけが、錆て 板に食いついて仕舞ったのだと思われました。  力尽くでピンを回転させた途端に 板が割れる可能性もあったので 状態を説明すると 『もう、綺麗な音には戻れないんですね…』と 残念そうに仰られたので 『言い方を変えると 廃校当時の狂ったままの音が、これ以上狂わない状態となっているので 音のオブジェと言いますか、モニュメントと言いますか、当時の記念の日の音のまま 保存できる訳です。』と お話をすると 『あ〜! ナルホド〜!!音が殆どそのままで残せる訳ですね!』と 皆さんの笑顔を観ることが出来ました。
《根津ピアノ》
さて、《根津さんのピアノ》のお話に戻ります。 私が出会った時の《根津さんのピアノ》は、町の小さな資料館と言っても 殆ど倉庫のような状態の場所に置かれてありました。 『コンディションを見て欲しい。内容によっては、考えていることがあって』と 当時の教育長をされていた知人からの依頼でした。  見に行ってみると 外装の塗りが現代のものとは違ったことなどから 直ぐに古いものだと分りましたし 中を覗きこんでみると 誕生日を特定できる切っ掛けの一つとなる【製造番号】が、可なり若かったこともありましたが、至って健康そのもので 『古いピアノ、と言うだけで 使わなかったら勿体無いです。』と お伝えすると 『じゃあ、元々小学校に有ったピアノだから 小学校に置いて 「資料の活用」という風なことが出来るのかな?』と尋ねられました。 確かに 資料館に置いておくことで 傷まない資料は数多くありますが、『ピアノは楽器だから 弾いてあげないと 買えて傷んでしまったり 可愛そうです。』と言うことから 出来るだけ当時の部品を残したまま 必要な作業をして 児童の元へ届ける事となりました。

このピアノが、資料館へ入った理由は、映画《トイレの花子さん》などのロケ地ともなった廃校となった木造の学校舎が、東村山市の保養所となって 古いままの校舎と共に 当時の多くの備品が、そのまま使われていました。 老朽化が激しくなった為に建て替える事となって その時に『もともと町のものだったんだから』と 金文字で書かれた文字があったピアノだった為に 資料館へと運ばれたそうです。 「このピアノの昔の姿の記録が無いかな?」と探してみると 知人たちからの情報提供があって 校舎解体3日前に 内部なども撮影されていらした方と出逢うことが出来ました。 VHSテープには、1階の音楽室に有ったアップライトとは別に 2階の図書館だった場所に 学校教材用のオルガンと共に並んで映っている姿があり 貴重なテープをお借りして CD-Rに焼き直しました。

そんな事も 必要と思われる修理作業を進めながら 仕事で移動した序に足を運んで進めて行った事を知って下さった 当時の教頭先生が、美術室で使われていなかったイーゼルを出して来て この様な素敵なパネルを作って下さいました。
校長先生が、『古いピアノが来るんだよ!』と 全校児童に お話をして下さったので ピアノ本体を搬入して アクションをセットしに行くと 『根津さんのピアノ、根津さんのピアノ〜♪』と 休み時間に作業を覗きに来たり 体育館へ移動する時に通りかかった児童たちが、鼻歌を歌っているのです。 『《根津さんのピアノ》って どんなピアノなのか、知っていたの?』と尋ねてみると 『うん! お祖父ちゃんと お祖母ちゃんが、「子供の頃に 学校に有ったピアノだよ」って教えてくれたよ〜!』と とても誇らしげに 教えてくれました。 児童たちの親世代は 触れる事が無かったことでしょうが、孫の世代となった時代に 再び、学校と言う現場に 職場復帰したピアノです。
ピアノが、小学校に美辞に入る日を待ち望んでいた児童たちは、当時の2年生3年生の幾つかのグループが、手描きのポスターを廊下に貼ったり チラシを描いて各クラスへ配ったりして 『○月○日の昼休み、コンサートを開きます』と 職員室にいらっしゃる先生方へも招待状を出して 頻繁に 小さな音楽会が開かれるようになったことを 校長先生、教頭先生はじめ 先生方(偶々だったのですが、当時の半分ほどの先生方は知人でした!)も 子供たちの自主的な発想と 接客なども研究して 工夫しながらの行動に驚いたそうです。
この春に卒業をしたNちゃんのお母さんと会った時に 『卒業式の時に 子供たちが合弾いているのを聴いたんだけど《根津さんのピアノ》って古いからなのかな?良い音がするのですね〜。驚きました!』と言って頂きました。 保守管理をして行く為の予算が、公的な場所だと 管轄が移動したことになるのか?等の引継ぎが行われていないままに人事異動が起こって仕舞うと どこへ見積書を送ればよいのか?を調べなくてはならなくて ピアノとはご無沙汰をしていたのですが、その言葉を聞いていたので 大きな心配はしていなかったのですが、 半分押しかけるような形で伺ってみると 当時一番弾いてくれていた小学校の2〜3年生だった子供たちは、既に高学年となっている訳で 家にピアノが無い子供たちも 興味をあれば、学校で弾いてくれているそうで 『壊れたかな〜?』とも言えなくも無い程に 弾き込まれていました!
県内に現存する《根津さんのピアノ》は、私が知る限りでは、10台に満たないのですが、大きなオーバーホールもせずに これほどまでに子供たちに愛されて囲まれているピアノも珍しいので とても嬉しいものです。  でも そろそろ又 ちょっと手を加えなくてはならないです。 それ程までに弾いて貰えることは 嬉しい限りです。

綺麗な夕焼けの日には、この様な富士山の姿が見られますが、この数日は 急激な天候の変化が激しいので なかなかお目に掛れない日もあります。
 
何かと忙しくなる師走となりました。 全国的に不安定で冷え込む日が多いようですので お身体に気を付けて お過ごしください。