上野の山の沢山の昔の音を感じました♪

上野散策の続きです 
昨日 ご紹介をした 旧 東京音楽学校 の 《 奏楽堂 》 について  面白い文章を読みました。    暫く前から 明治9年東京大学医学部 へ 〈 お雇い教師 〉 として 26年間 の医学部学生教育 及び 皇族始め 日本の歴史に大きく関わられた方々の 主治医として 日本に29年間滞在した ドイツ人医師・エルウィン・ベルツ の日記 を 少しずつ読んでいるのですが、 明治35年(1902年)4月2日に 《 当時の 日本最大の講堂 》 と記されている この 奏楽堂 にて 第1回日本医学大会 が 開催された事です。   丁度この頃は この 上野に今でも立っている 西郷隆盛が 胃癌に冒されていて  Dr.ベルツ が、 度々 診察をしていました。   ベルツは 不忍池 の向こう側の丘の上にある 現代では 唯一といえる 赤門 を 備えた 加賀藩・前田家 の屋敷跡で 生活をしていました。   徳川家の血をひく 姫君を妻として迎え入れる際に 赤門 は  その藩の 江戸下がり時に使用する 姫君が生活の場とされる屋敷に構えられたそうですが、 度重なる江戸の大火や 震災などによって 現在では 東大の赤門のみが 現存しているそうです。    余談ですが、 浜松の先生から伺ったお話では 加賀藩・前田家 の 世が世ならば殿になられている方は かつての男爵は 未だにお元気なのか!?までは分からないそうですが、『 明大前駅の近くのお屋敷で チェンバロ 作っていて 見に行ったことがあるよ! 』 とのことでした。

ベルツの日記〈上〉 (岩波文庫)

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この1902年には 最後の徳川家将軍であった 慶喜 が、 明治天皇に30年ぶりに謁見をして  公爵 となった年です。    そして YAMAHA が 国産1号となる グランドピアノを完成させた年です。
現在の 国立博物館 では この頃は 美術館 として建てられており 内国勧業博覧会の会場ともなっていました。   

娘達と 上野の山の公園を歩きながら 『 ドラマの 《 仁 JIN 》 って 観ていた? 』 そんな話をしました。   最終話で 未来からやってきた 仁 を慕いながら 医師としての道を歩む 咲 が、 実の兄が 尊王 との最後の対決で 死を覚悟して 上野ヘと向かったと聞いて 止めに向かって 『 流れ弾に当たってしまって 負傷した場所だよ。 』とか、 『 咲のモデルは オランダ商館 お抱え医師だった ドイツ人 シーボルトの娘の 楠本イネ が モデルで  結婚をしなかった 咲 が、乳癌が原因で フランス人との間の子どもを生んでから亡くなった 元花魁 の 野風 の子どもを引き取って育てて その子が 仁 の 生きる本来の現代へと 子孫を残す設定だったんだよ〜 』とか 『 「仁」で 西郷さんが胃癌になっていたけれど 本当のことでね、  野風さんの乳癌を手術するシーンが有るけど 本当にその頃に 日本ではじめての乳癌の手術されたんだって。』 そんな話をしました。
JIN-仁- 完結編 DVD-BOX

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JIN-仁- 1 (集英社文庫(コミック版))

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早々に 『 パンダ、見に行こう! 』 と言う 主人&娘達と 一旦別れて  奏楽堂 から 程近い 《 国際子ども図書館 》 ヘと 立ち寄りました。   1906年(明治39年)に建てられた 《 帝国図書館 》 を再生利用として 国会図書館支部図書館とされています。   外壁には 柚薬 を塗って 耐火性を持たせた 煉瓦が使われるなど 3種の煉瓦を 適材適所に使っての 耐震性にも優れていた 建築です。   表には ラフカディオ・ハーン こと 小泉八雲 の レリーフのはめ込まれたオブジェが在ります。   日本の古くから伝わる怪談話などを纏めた事で有名な 小泉八雲 ですが、ベルツのように 日本へ招かれた人物でした。 


木製の階段 には 錬鉄製 の手すりが着いていて  壁や 天井は 日本古来からの 漆喰 の技術を生かして 美しい 花や フルーツが描かれてあり  大きなシャンデリアが、下げられています。

当時から使われている ケヤキ材 の 立派で 重厚な扉が、 漆喰の壁に映えて 独特の空気を創り出しています。

貴賓室 特別閲覧室 普通閲覧室 と 当時の 階層に分けられての 使用する 閲覧室があったそうです。  


現在は 著名な建築家の手によって 外壁部分の保存と共に 身近に触れられるような 増築などがされてあって  自然光の溢れるスペースは 元々は 外壁だった部分を生かして有ります。
《 日本の子どもの文学 》 の展示会が開催されていました。  日本の子どもの為の 本格的な文学 が 誕生したのは 1891年(明治24年)に 博文館が 《 少年文学 》 が刊行された事から始まるそうです。  その後に大正時代に入ってから 《 赤い鳥 》 等の刊行へと至ります。
 

明治に入ってから 《 学制 》 が しかれた事で  寺小屋から 学校へと変わっていきます。  その際に アメリカや 上海経由で ヨーロッパから輸入された リードオルガンが 山葉寅楠 の運命を変えましたが、 彼の人生に大きな影響を与えた 旧・東京音大学長であった 伊澤修二 によって 現在の音楽の時間に当たる 唱歌教育 に使われた 《 小学唱歌集 》 が、 1881年(明治14年)に 纏められています。   伊澤修二の出身の高遠藩のお屋敷は 新宿御苑内藤町です。  内藤町は宿場町としても栄えた場所でしたので ちょっと脇道に入ってみると 〈 子ども 〉と称されてはいますが、 無縁仏となった遊女達を奉るお寺さんも在ります。   東京散策も 歩いてみると 中々なものです。

いよいよ 明日は パンダに登場してもらいます〜