高輪散策・N響関係者に間違われました〜f^^;


仕事の延長線上の所用で 高輪へ行きました。   遅刻厳守だったので 「工具が重たいので 車で行こうか!? JRで行こうか!?」と悩みましたが、《えきねっと・トク35》で リーズナブルに指定席を取って 久し振りに 特急あずさ の旅にしました。   が、やっぱり・・・ ハンドルとシートベルトが無いので 腹痛に襲われました。

最近、 半日ほど運休の多いJR中央線なので 朝一番の《あずさ2号》に乗りましたので 順調に早めに到着しました。  東京に住んでいた頃は 「いつでも行ける」と言う気持ちもあって行くことが無かった場所が沢山あるので 今回は 高輪周辺を散策しました。
泉岳寺 】 の 赤穂浪士の墓をお参りに行きました。

会社勤めで仕事をしていた頃は 未だバブリーな時代でしたが、当時 都内のお寺はビルに建替えられる所もあって お墓もその中で ロッカーの様なマンション式に変わり始めた時代でしたので 伺うお客様のお名前は 個人名ながらも お寺の住職やご家族の場合には随分と驚いたものでした。
高輪は 江戸時代には 海に近いことなどもあって 大名達の下屋敷(別荘)地帯でした。  参勤交代で全国から江戸へ集ることを課せられていた大名達は 江戸城の近くの上屋敷を始め 複数の藩邸を所有していた所も数多くあったようです。   例えば、 現在の東大の敷地は 加賀藩前田家の上屋敷跡で 朱塗りの赤門は将軍家の姫君を正室として迎え入れる際に建てられたもので かつては江戸には多くの大名上屋敷中屋敷に この様な赤門があったそうですが、 江戸の大火で焼失して仕舞い、現在では都内では 東大の赤門のみが残っています。

この【 泉岳寺 】は 徳川家康によって 桜田に創建されたことに由来する曹洞宗の寺ですが、 1641年の大火で焼失してしまい 6大名への命によって 現在の高輪へと再建されて居ます。  年号は苦手なのですが、家康の長寿振りとそのエネルギッシュな行動力には驚く事が沢山あります。
その家康が、増築して大きく構えた江戸城内・松之廊下(現在の皇居東御苑)で 浅野匠頭が、積もる恨みを抱えて 吉良上野介に切り掛かったことで起きた事件による《 赤穂浪士四十七士 》の芝居や テレビドラマでは年末の恒例の番組となっていますね。

将軍家からの命によっての建立された寺なので 数回の焼失などにも遭いながらも その度に 見事な職人達の技術によって再建されてきています。
檀家として 大名家の墓もありますので 墓地の見学は出来ませんでしたが、その墓地を支える石垣は 小さな城をも支え守りそうな 強度の高い技法を使っていて 数年前に現代の大手建設会社によって修復をされたそうですが、その際に その特徴ある力石などを使った技法に 携られた技師の皆さんが驚かれたそうです。

木目の使い方や それを生かした象と獅子の木彫(梁からこちらを見ているのは獅子、その横に雲の様に見えるものは象の鼻です。)も 組木の技法の中に取り入られつつ 装飾として花を添えています。

赤穂四十七士の墓 》の入口です。   かつては木々が覆い繁り 鬱蒼としていたそうです。

門柱の横には 討ち入りの際の姿を模した小さな可愛らしい焼き物が乗った 《 水琴窟 》が、ありました。  この先の右側に 《 吉良の首洗い井戸 》があります。  これから先は お墓なので写真は控えました。

明治の東京写真 新橋・赤坂・浅草

明治の東京写真 新橋・赤坂・浅草

以前にこのブログでも紹介しましたこの本に写真がありましたが、今も変わらずに 四十七士と 浅野家の一族の墓はあります。   お参りされる方々に線香を売られているお寺の方がいらして 他にも参拝客が多くいらしていましたが、何方のお墓なのか!?を説明して下さいました。
吉良邸の表門の大将を務めた大石内内蔵助良雄と その長男で裏門の大将を最年少の16歳で務めた大石良金の墓と共に 浪士たちの名前と共に それぞれに《 刃 》の文字のある戒名が刻まれて有りました。  浪士の一人ひとりの事は詳しくは分かりませんが、それぞれに似合っているのでしょう見事な文字や響きの戒名と伺えました。  
後から職員の方にお礼を言いながら伺うと 『大きな重たそうな鞄を持っていたので 単なる観光客じゃなくて NHKのオーケストラの関係の人だと思った』そうです。  更にひょんな話題から その方が、カトリックの信者さんだとの事で 都内の教会の話にも至り  高校時代に学校の記念式典の記念に パイプオルガンを伴奏にコーラスのレコーディングをした 懐かしいカテドラル大聖堂の話題にもなりました。 


更に 直ぐ近くの【 願生寺 】へ 立ち寄りました。  狭い路地の突き当たりにあるのですが、鉄の門には 葵の御紋があります。  江戸城の石垣を運ぶ為の京都から呼ばれた牛屋七家によって 願生寺門前に 車町が出来ました。   都内には各地方の地名が多く使われていますが、この牛屋の町の様に 各地方から江戸へと召集されたりやって来た人たちによって その地域の町が構成されたことに由来しています。
高輪の名前の由来は 戦国時代の軍記物語に『高輪原』として書かれているそうで 高輪海岸から上がった高台を南北に走る真直ぐな道が、遠くからの眺めでは 真直ぐに張られた縄の様に見えたことから 高輪とされた説や 人物の名前に由来しているとも言われています。

しかし このお寺は 京都出身の牛屋の人たちや 荷車を牽いた牛たちを供養する為に 牛供養等もあります。  高輪の地名の由来は この時の労働で 壊れた牛車の車輪が、高く積まれていた事に由来するとも言われています。  江戸城の石垣を運ぶ為に 多くの牛たちの鳴き声や 牽く車の軋む音を想いました。
この近くには 高輪大木戸跡や 都内最古の前方後円墳があり 高層マンションの建ち並ぶ高級住宅地の谷間にある 史跡めぐりも面白いものです。