ちょっと足を延ばして【 高遠城 】

mukku38682010-12-17

この冬一番の冷え込みとなりました。 庭先から 夜間の雪撒きのライトが見える  《 富士見パノラマスキー場 》 も 随分と 雪を増やせたようです。    ピアノの生産地で有名な 静岡県 浜松や 磐田からみえる 《 南アルプス 》の反対側になります。
諏訪方面へ向かって 標高1000m余りの 道を 車で走っていくと 真っ白く 浮かび上がる 穂高や 白馬などの  《 北アルプス 》 が、 青空に映えて 見事な眺めです。

長野県特産の 《 寒天 》 作りが、 始まり  棒寒天の 天日干しの風景を眺めながら お客様のお宅へ 伺いました。
順調に 作業が、終わり この数日の風の強い日とは 打って変って 冷え込んではいるものの 穏やかなお天気でしたので ちょっと足を延ばすことにして コヒガンサクラの 桜の名所として 有名な 【 高遠城 】を目指しました。  この季節に 勿論、桜は咲いてはいません。  高遠城は 戦国の時代には 織田家と 武田家の 激戦の城跡で たくさんの兵士が、亡くなった所です。 
後に 新宿の 内藤町新宿御苑の 内藤家が、納め 藩校 【 進徳館 】を設立し 明治維新を迎えると この進徳館で学ばれた多くの方々が、 様々な分野で 活躍されました。  その中に 東京芸術大学の前身の《 音楽取調所 》初代学長を務めた事で有名な 【 伊沢修二 】の名も あります。  伊沢修二は YAMAHA創立者・山葉寅楠との交流も有名なお話です。  【 YAMAHA 国産ピアノ 1032 】との出逢い以来、 興味深い人物として 調べて 学ぶ事の多い人物です。    そして同じ頃に 内藤さんとの出逢いがあり ご自宅に ご縁があって置かれている《 YAMABA 》のリードオルガンを拝見した際に 高遠藩と 伊沢修二と 山葉寅楠と《 YAMABA 》に関わりが、深いことをお話した事があります。  

【 進徳館 】は 城の直ぐ近くに 建てられました。 城の周囲には 様々な分野の博識な専門家達の家も 在ったそうで 実に多くの学問を学生達は 学んでいました。   馬術をたしなむ者としては興味あることの一つに 谷間の城下町で 必要ではあったものの 馬術も盛んで かつては 長い直線の《 馬場 》も備わった 城でした。  此処の庭からは 駒ケ岳などの《 中央アルプス 》が、 眺められます。 

敷地内の《 蔵 》には 内藤家の《 家紋 》が、瓦にも 描かれていることに 今回 気がつきました。   漢数字の《 十 》の様にも見えるのですが、習字の筆で書くとすると 《 鏡文字 》の様で 左から右へ 筆を進めて 左側から上へ払われて 縦棒を書いた書体です。
大奥の 《 絵島・生島事件 》で 絵島が幽閉された屋敷跡と 並んで建てられている  《 高遠町立 歴史博物館 》へ伺い 伊沢修二の事を調べていることと 蔵に描かれている《 十 》の文字の由来を知りたい旨をお伝えてしてから 館内を拝見しました。     そして 絵島も この様な風景を 毎日眺めながら 幽閉生活を送ったのだろうか… と 景色を眺めました。  町の教育委員会等が、出版した資料が、興味深いものが多く その内の数冊を選んで 購入していると 『 時間はありますか? 』と入館の際に会話を交わした方から 声を掛けて頂きました。  名刺を頂くと 館長の 北原さんと仰る 元・高校教員をなさっていた方でした。   『 伊沢修二を調べているのでしょう? 』と 資料のコピーを用意して下さっていました。   多くの場合の 伊沢修二の資料には 『 音楽取調所 初代学長 』と山葉寅楠とのエピソードで 締め括られていますが、館内の資料を拝見したり お話を伺っていると とても熱心な《 現場主義の教育者 》だった事が、分かりました!  雑司が谷に お墓が在るそうですが、伊沢修二を研究されている方で 盲学校の教員の方がいらした事を思い出しましたが、発音に障害のある方々への指導なども 様々な方面から研究指導をされていたそうです。 そして台湾へ渡り 現地の人々に歌を歌わせる等の いわゆる日本語教育をされた事も 教えて頂きました。
内藤家の 家紋の 《 十 》の字は 《 ナイトウの ナ の字 》の説等もあるそうですが、 峠向こうの 伊那谷の 宿場町には、『 隠れキリシタンの創った 水子地蔵を模した 幼子イエス・キリストを抱いたり 十の字を模様の様に刻んであるお地蔵様などが、点在しているので 十字架ではないのでしょうか!?』と 尋ねると 伊那谷へ キリスト教を伝えたという説もあるそうです。    ロシア正教などは逆ですが、 カトリックでは 《 十字 》は 右手で 左肩から右肩へ そして額から胸へと切ります。 
北原館長と お別れをしてから その事を思い出して 家紋を改めて見に行くと 十字を切っている・・・ と 思えてなりませんでした。   

ちょっと解り難い場所に在る 《 伊沢修二の生家 》も 立寄る事が出来ました。    博物館で購入した資料を 読んでみると 元々 山梨・武田信玄に仕えた武将の子孫で ルーツは 山梨県石和に在ることが分かり 更に 興味をひくものとなりました。
只今 映画【 武士の家計簿 】が、上映中で 映画の元となった新書本も 読み始めたところでもあって 時代背景を 勝手にイメージしつつ この冬に予定している 資料の整理の材料が、たくさん増えました!

明治時代に 伊沢修二たちが、諸外国へ留学した際に 持ち帰った資料などは 閲覧出来るものの 逆に 諸外国へ持参した 当時の日本の資料のことは 考えた事も無くて 館長の北原さんのお話によると アメリカでは資料室が作られてあり 日本からの資料が保管されていて 今でも アメリカとの 伊沢修二に纏わる交流が、続けられているそうです。  数年前に 二胡奏者の 劉 鉄鋼先生も 交流の会の中で 演奏を披露されたことを伺い 先日の カノラホールでの演奏会が とてもユニークで 調律のお仕事をさせて頂いた事をお伝えすると 懐かしそうに 微笑まれました。
貴重なお話と お時間と 貴重な資料を下さった 北原館長に お礼を申し上げます。  有難うございました。 そしてまた お目に掛かれます日を楽しみにしています。
帰りの 《 杖突峠 》を下る時 夕焼けに染まる 八ヶ岳と 輝き始めた月が とても美しかったので 車を停めて 数分間の 色の変化を眺めました。